(これまで賛同者のメッセージんに交えて公開したものを含めて、呼びかけ人のメッセージをここにまとめて掲載いたします。3/12 細見和之さんのメッセージを追加しました)
◯細見和之さんのメッセージ
この間の京都大学による吉田寮に対する一連の振る舞いが、大学の管理強化、大学のサービス産業化という大きな流れのなかにあることは疑いありません。
私は1980年代に大阪大学の学生として自治寮の暴力的な解体という事態に立ち会いました。座り込んでいる私たちを機動隊員がひとりひとり引っこ抜き、空っぽになった寮の建物をクレーン車とブルドーザーが破壊していったあの光景を、私は忘れることができません。
大阪大学の自治寮が解体されたときには、寮生はすでにとても少なくなっていたという事実がありましたが、吉田寮にはいまもたくさんの学生が暮らしています。
学生自治の精神を京都大学はいったいどう考えているのか。その原点に立って、京都大学の執行部が、吉田寮に現に暮らしている学生たちとの真摯な話し合いの場にいまこそ出てくれることを願っています。
◯高山佳奈子さんのメッセージ
これまでの経緯や学生の提案を無視した朝令暮改の措置は、京都大学の歴史と社会的評価を著しく傷つけ、基本的人権を侵害しています。京大の文化的価値と信用を取り戻しましょう。
◯藤原辰史さんのメッセージ
執行部のなかで寮生に対する不信が「創出」されているような気がします。吉田寮生に対する一方的なイメージを「創出」して、そうだそうだと同意して、それを元に寮生への対応が進められているような気がします。大学での学問の訓練の過程でわたしたちが学んだのは、そんなときに、まわりの空気に流されず、敷かれたレールから降りて、冷静になって事実と向き合うということでした。良識ある学問の担い手であれば、いまから団体交渉約束の破棄の段階にまで戻って検証することもできるはずだと信じています。
◯木村大治さんのメッセージ
以前、学生生活委員会第3小委員会(寮問題等担当)のメンバーでした。大学側の立場、寮生側の立場、双方をそれなりに理解しているつもりです。(その均衡点である「団交」に出席するのは、大変だが貴重な経験でした。)しかし今回のように、大学側が、これまで長年にわたって続いてきた寮との関係を、突然掌を返したように変更して強圧的な態度に出るのは非常に不自然に感じます。寮生側も歩み寄りの姿勢を見せているわけですから、大学側も問答無用という姿勢は改めるべきだと思います。これは本学教員の多くが感じていることではないでしょうか。
◯水野広祐さんのメッセージ
長い歴史をもつ吉田寮とその寮を支えてきた自治会の存在を尊重し、また大学と吉田寮との交渉の積み重ねの経緯を踏まえ、一刻も早く大学執行部が吉田寮自治会との交渉の場にもどることを願います。
◯小関隆さんのメッセージ
今からちょうど100年前、パリで開かれていた第一次世界大戦の講和会議でキーワードとなったのがself-determination でした。「民族自決」と訳されがちですが、「自己決定」の主体は民族とは限りません。よく知られている通り、このキーワードには多様な解釈を許す曖昧さがあり、少なからぬ紛争や悲劇の火種となったことは否定できません。とはいえ、紆余曲折はあったにせよ、以降の世界が「自己決定」の権利を尊重する方向で努力を重ねてきたことも事実です。吉田寮の問題もまた、こうした1世紀にわたる大きな歴史の流れの中にあります。
◯岡田直紀さんのメッセージ
川添副学長、2月12日付の「吉田寮の今後のあり方について」という文書を拝見しました。これは副学長御自身で書かれたものではないにせよ、あなたが主導してまとめられたものと理解しています。
この後に吉田寮自治会から2月20日付で出された「声明」と合わせて「あり方について」を読むとき、あなたと同世代の大人として同情を禁じえません。「あり方」が、一方的な通告として有無を言わさずこちらの言いうことを聞けと主張し、問題解決に向けた努力の跡など一切感じさせないのに対して、「声明」には多くの寮生が議論を重ね、何とか打開の方向を見出そうと努力した跡が感じられます。(このことは、分断と対立を避けるために南の島でいま懸命に力を尽くしている人たちの姿を私に想起させます。)どちらの文書が読む人の心を動かすかは説明を要しないでしょう。この寮生たちのように、副学長にもひたむきな努力を傾けた時代がかつてはあったのだろうと、自分を振り返って推測します。歳を重ねるということは、必ずしも賢くなるということではないのですね。
川添副学長、あなたの教えを受けた学生たちのことを考えると、同じ教員として同情を禁じえません。講義とは義を講ずると書きますが、「あり方について」を読んだ学生たちは、あなたが講じていたのは義であったのかと疑わないでしょうか。自分を指導してくれた教員に対して今も私が持ち続けている尊敬を、あなたの指導した学生は果たして持つでしょうか。
川添副学長、「あり方について」が広く知れわたるようになった今、一人の人間として同情を禁じえません。人が心ならずも嘘をつくことを私は承知しています。そして、平然と嘘をつく人はそう多くはいないのだとも。居住者の安全確保のためにと説明されてきた大学当局の対応が実は虚偽であり、真の狙いは自治寮の解体にあったことが「あり方について」で宣言されました。あなたは強いられてこうした対応を取られたのでしょうか。だとすれば実にお気の毒ですが、それとも・・・。
「声明」を通じて吉田寮自治会からボールが投げ返されました。直球です。このボールをどのように受け止められるでしょう。注目しています。 .
◯松本卓也さんのメッセージ
「京大は、おもろい」――京都大学の2019年度の公式パンフレットの表紙にでかでかと踊るキャッチコピーである。
ここ数年で、これまでの京大がもっていた、どこか危うげであり、それゆえにときとして強みにも転化しうる隠れた持ち味であったはずの「おもろい」「変人」といった言葉が、「上から」「堂々と」「公式に」使われるものへと急激に変質してしまったように感じる。
吉田寮を始めとする自治寮、そして京都大学にギリギリ残っている学生自治の文化が、かつての「おもろい」「変人」文化の一翼を担うものであったとすれば、現在起こっていることはそれに対する「文化盗用」であるとみなすことが許されよう。
かつての「おもろい」「変人」といった言葉がもっていた境界的な性質――それは、さまざまな雑多なもの、怪しげなもの、狂いに満ちたものとのあいだに生まれ、ときにはさざまな格闘の末に得られた文化である――は、この文化盗用によって見るも無残に脱色されてしまい、「ソフィスティケート」された商品になりはててしまった。
もちろん、それは時代の流れなのかもしれない。現代とは、「カフェイン抜きのコーヒー」が流行するように、本質を失った形骸が本物のふりをして大手をふって流通する時代であるのだから。
こういう時代なのだから、大学は思い切って、「京大は、おもろい」などと言わずに、「真面目」かつ「本格派」な路線を突き進むこともできたであろう(現に、他の大学はほとんどがそうしているではないか)。そうすることもできずに、いまだに「おもろい」「変人」というコンセプトに未練タラタラであるばかりか、それを「客寄せパンダ」として掲げようというのだから、滑稽であるとみなされても仕方あるまい。
時代の流れに対して無批判に追従するのか? それとも、今も残る「おもろい」「変人」の伝統の燃えカスを生かして、その流れに可能な「捻り」を加えていく余地を確保していくのか? その選択は京都大学の全構成員によって決定されるべきであろう。
◯石井美保さんのメッセージ
「あらゆるものの中心が、キッチンと図書館というふたつの施設からなる傾向にあったことは重要だ。」
2011年にニューヨークで起きたオキュパイ運動についての著作の中で、デイヴィッド・グレイバーはこう書いている。台所と図書館。それは自発的なコミュニティの形成と持続にとって必要欠くべからざるものだ。本とキッチンを中心に、生活の場であり議論の場でもある空間が創りだされ、人びとが自然と集まり、有機的なネットワークがじわじわと広がっていく。それは並木道に置かれたベンチのように見栄えのいいものじゃなく、むしろむさ苦しくて薄暗い居場所かもしれない。でも、野生の勘をもった人たちや猫たちが集まってくるのは、いつもそうした路地的で裏道的な空間だ。
そうした空間は、一朝一夕に作りだされるものではない。熱帯雨林のように微妙な均衡を保って維持されてきた有機的な関係性の網目は、一度破壊されてしまえば簡単には元に戻らない。いくら外から再生のお膳立てをしたとしても。
学生食堂のテーブルにパーティションを作ること。
無線を持った警備員を正門に常駐させること。
立て看を撤去し、設置できる場所や期間や団体を管理すること。
吉田寮から学生を退去させ、コミュニティを解体すること。
これらはみんな、連動して起きている出来事だ。そうやって路地的なるものの排除を進めながら、他方では多額の宣伝費を使って「おもろい京大」のイメージが喧伝されている。おそらくは、お客様としての未来の学生たちに対して。管理する側にとってややこしい、薄暗い、危なっかしい要素を排除して、どこまでもクリーンで合理的でコスト・ベネフィットの帳尻が合うような、そんな大学と学生像が目指されているのだろうか。
スターバックスがいくら宣伝しても真のサードプレイスにはなれないように、外注して作りだされた「おもろい京大」がアピールされても、虚しく歯がゆい。胃袋と知識を真ん中にして、人びとが根っこのところでつながりあい、大学からはみだしていくようなコミュニティを抱えもっていたほうが、大学としての底力は増すに違いない。路地的野生を手放してはならない。
◯小山哲さんのメッセージ
京都大学における学生寮の自治の制度的な根拠は、次の規程によるものです。
「京都大学学生寄宿舎規程」(昭和34年2月10日 達示第2号制定)
- 「第2条 各寮における寮生活の運営は、寮生の責任ある自治によるものとする。
- 2 寮生の自治に関する規則は、寮生がこれを作成し、副学長の承認を得るものとする。その規則を変更しようとするときも同様とする。」
寮生が主体となって自治を行なう権利は、この第2条によって保障されています。
また、入寮者の選考については、寄宿舎規定の第4条に条文があります。
- 「第4条 入舎する者の選考は、寮生代表の意見をきいて、副学長が行う。」
「寮生代表の意見をきく」ことが入寮選考の前提条件になっています。「自治会」という団体名は規程上はありませんが、慣行として、各寮の自治会が第4条の「寮生代表」に相当する団体とみなされてきたものと考えることができるでしょう。
2月12日付で発表された「吉田寮の今後のあり方について」のなかで、川添副学長が「もとより本学は、学生寄宿舎における学生の責任ある自治を尊重する」としながら、「本学は、基本方針を実施する過程において、吉田寮自治会による吉田寮の運営実態が到底容認できないものであることを認識するに至った」と述べているのは、上記の第2条の表現をふまえたものです。2月12日付の声明によって、京都大学は、吉田寮自治会は第2条で定められた「寮生による責任ある自治」を担う資格と能力を欠いていると判断した、と公的に表明したことになります。
問題は、そのような判断を下すにあたって、十分な調査と議論の手続きがふまれることなく、一方的に宣告がなされている、という点にあります。
大学執行部の「吉田寮自治会による吉田寮の運営実態が到底容認できないものである」という認識は、現在、各研究科・学部で教員が指導している(あるいは、将来、指導する可能性のある)院生・学生から、大学の規程によってこれまで認められてきた権利を剥奪し、彼らの生活と学業の環境を大きく変更する重大なものです。一般の教員には、大学執行部による上記の認識が適切なものであるのかどうかを判断するための具体的な情報も、オープンな議論の機会も、与えられてきませんでした。「多様かつ調和のとれた教育体系のもと、対話を根幹として自学自習を促し、卓越した知の継承と創造的精神の涵養につとめる」、また、「学問の自由な発展に資するため、教育研究組織の自治を尊重するとともに、全学的な調和をめざす」という京都大学の基本理念に照らして、このような状況は不適切であると考えます。吉田寮自治会との対話の道を閉ざさず、また、教授会で十分な説明と審議をおこない、学内の合意形成を図ることを求めます。
◯福家崇洋さんのメッセージ
これまで大学当局は吉田寮生の退去を迫る理由として学生の安全確保をあげてきたが、今回当局から発表された文書「吉田寮の今後のあり方について」「現在吉田寮に居住する者へ」(2019年2月12日付)は、寮の「自治」を問題視しており、これまでとは異なる段階に入ったと考えている。大学当局は上記文書で、「時代の変化と現在の社会的要請の下での責任ある自治には程遠く」や「同様の無責任な行為・言動」などと書き、吉田寮の「自治」を問題視する。しかし、以上の理由では、根拠が弱く、当局側の印象操作にとどまっているといわざるをえない。
「責任ある自治」は、「京都大学学生寄宿舎規程」第二条「各寮における寮生活の運営は、寮生の責任ある自治によるものとする。」から引用されたものである。この部分は後年改正されて追加された箇所で、規程制定時(1959年)には「自治」の文言は記されていなかった。しかし、当初の規程でも寮の「自治」に対する配慮はなされており、大学当局は寄宿舎の管理と運営を分けて考えていた。同時期に寄宿舎側が作成した規程制定に関する資料には、「その後芦田学生部長とも懇談する機会を得、我々の寮が自治憲章等によつて何等の不足もなく運営されている実状を説明し、管理規程だと云われる寄宿舎規程や細則が、管理の面にとどまらず選考その他の運営のあり方に迄変更を生ぜしめるのではないかと云う全寮生の懸念を伝えたところ、先に厚生課長から示されたのと同様の考え方によつて、その懸念の不必要な事を説明された。」(京都大学々生寄宿舎総務部「学生寄宿舎規程制定に関する経過報告」1959年2月26日付、『吉田寮関係資料』Ⅰ-100、京都大学大学文書館所蔵)とある。
よって、規程制定後でも、これまで通り寄宿舎の運営(上記によれば「選考」も含む)は寄宿舎自身に委ねられることが考えられていた。このため、寄宿舎側は「たとえば自治憲章、実行箇条等を遵守する精神を失い、舎生の機関によつて秩序の維持が不可能となる」ような事態でなければ、「大学制定の細則によつて運営のあり方を拘束する事はできないものとなりました」(同上)と記している。
その後、この寄宿舎規程については吉田寮側から問題提起がなされ、より運用実態にあわせるべく規程改正運動がなされ、結果的に1963年5月付で京都大学学生寄宿舎規程の改正が行われた。とくに重要と思われる改正箇所を以下に引用する(京都大学事務局『学報』3022号、1963年5月31日)。
- 「第二条 各寮〔吉田寮、宇治寮、女子寮を指す 引用者〕における寮生活の運営は、寮生の責任ある自治によるものとする。
- 2 寮生の自治に関する規則は、寮生がこれを作成し、学生部長の承認を得るものとする。その規則を変更しようとするときも同様とする。」
- 「第四条 入舎する者の選考は、寮生代表の意見をきいて、学生部長が行なう。」
まず、この規程改正が寄宿舎側の意向を汲んだものであることは、寄宿舎側が策定していた「京都大学学生寄宿舎自治憲章」(1955年、『吉田寮関係文書』Ⅰ−112)総則第二条「本寄宿舎は責任ある自治生活を営み、舎生相互の人格の向上を図ることを期する。」として、「責任ある自治」の文言が寄宿舎規程にも新しく盛り込まれたことからもわかる。選考についても、もとは「学生部長が選考を行う」だったのが「寮生代表の意見をきいて」が追加された。
また、当時の京大の評議会に提出された文書「京都大学学生寄宿舎規程の一部改正について」(『評議会関係書類 昭和37年9月〜昭和38年7月』MP00071、京都大学大学文書館所蔵)では「改正理由」として、「学生寄宿舎の伝統ならびに現状に照らし、寮生による自治的運営を明確にすることにより、寮の教育的機能を一層向上せしめるよう、この規程の一部を改正するものである。」と記して、寮の「自治的運営」を大学当局自身が強く謳っている。規程内では学生部長(のち副学長に改正)の関与が記されているが、それはあくまで寮側の「自治」を前提にしたうえでのことである。
当時の『学園新聞』1963年5月20日付にも、規程改正の記事「寮規定改正される “学生の自治”を強調」が掲載され、第二条について「寮生の“責任ある自治”が積極的に前面に押し出されている」として評価している。なお、同記事には、2月15日に寮生代表と大学側の間に「覚え書」が交わされ、第4条に「入寮選考については慣行を尊重する」という文言が付帯されたとある。
よって、規程の改正は明らかに大学当局が寄宿舎側の「自治」を追認したものであり、この状況下で改正が行われたことを踏まえて、現行の規程を解釈する必要がある。
なお、「京都大学学生寄宿舎自治憲章」はのちに「京都大学学生寄宿舎吉田寮自治憲章」(1965年制定)と変更され、上記の総則第二条につづいて、第三条「本領は自治寮たるをもつてその運営はすべて本寮寮生に依り行われ、本寮以外の何らの干渉を受けず本寮の自治の侵害は許さない。」が加えられている(『吉田寮関係資料』Ⅰ-101、上記項目は「吉田寮自治会自治憲章」に改正されながら継承)。
以上の経緯を踏まえて、改めて大学当局が発表した「吉田寮の今後のあり方について」「現在吉田寮に居住する者へ」の問題点について考えたい。まず一点目は、「本学は、基本方針を実施する過程において、吉田寮自治会による吉田寮の運営実態が到底容認できないものであることを認識するに至った。・・・しかし、この不適切な実態は、・・・学生寄宿舎である吉田寮を適切に管理する責務を負う本学にとって、看過できないものである」とあるのは、寄宿舎規程制定時における、管理と運営の別を踏まえた大学当局の見解と齟齬があるということである。大学当局が管理主体として運営主体(吉田寮)の自治慣行を尊重・追認したうえで、安全確保のため退寮を促すことはまだしも、占有移転禁止の仮処分命令申し立てなどの法的対応に訴えることは、自治的な運営に対する侵害である。あわせて、その運営に含まれる新寮生選考を大学当局が一方的に禁止を言い渡したことも問題である。
もう一点は、吉田寮の「自治」に問題があったか否かである。寄宿舎制定時における寮側の認識として、運営に支障がある状態とは、「自治憲章」等を遵守する精神を失って寮内の機関による秩序維持が不可能となった場合が想定されている。この精神とは、「自治憲章」総則に記されてきた、寮生が責任ある自治生活を営むことや寮生相互の人格向上を図ることであり、また自治寮として他からの干渉を受けないことである。少なくとも、現在の吉田寮がこの2点に体現される精神を守っていないとはいえず、むしろ自治寮を守り受け継ごうとしているがゆえに今日の事態にいたっている。よって、大学当局が言うように、吉田寮の「自治」に問題があるとは到底いえず、規程を理解していない当局側の干渉こそが吉田寮の「自治」を脅かしているのである。そのことを以て吉田寮の「自治」に問題があるかのように印象操作を行う大学当局の姿勢は、自己矛盾としかいいようがなく、学問の府が取るべき姿勢ではない。よって、大学当局は、運営を担う吉田寮の「自治」を尊重したうえで、吉田寮との対話・協議を再開することを何より求めたいと考える。
◯駒込武さんのメッセージ
川添信介副学長
ご無沙汰しております。
今回の緊急アピールにかかわる記者説明資料を準備するために、「5年雇い止め条項の見直しを求める常勤教員の要望書」という10年ほど前の記者説明資料を引っ張り出してみたところ、当時理学研究科教授だった山極寿一先生、文学研究科教授だった川添先生に「呼びかけ人」として名を連ねていただいたことに気づきました。
皮肉なことに現状では直接お会いしてお話することも難しい状況です。ですが、意を尽くて記せばきっとわか相互的な理解を築けるはずだという思いを励ましとしながら、この場を借りてメッセージを書かせていただきます。
長文になるかもしれないことをお許しください。
吉田寮をめぐる問題には、いろいろな要素が詰まっています。
賛同者から寄せられたメッセージを読みながら、市民と交流する「京大の縁側」という卓抜な比喩にうならされたり、「立場の弱い人を受容してきたシェルターのような存在」という表現にはっとさせられたりしています。「京大は、おもろい」というけれどこのままでは「天然の「おもろい」は死に絶え養殖の「おもろい」が蔓延る」ことになるのではないかという指摘に考えさせられ、「とりあえず確保せねばならない利益、ノルマの達成、喫緊の課題の達成に追われがちな世の中」だからこそ吉田寮のように「無駄」に見える存在が大切という言葉に身につまされる思いもしました。なかには高校生として吉田寮に入ることに憧れていたのに…というメッセージもありました。
こうした吉田寮の文化的価値ともいうべきものや、その存続が大学の社会的信用にかかわることについて、大学執行部を構成される役員層の方々もよくわかっているはずです。
それにもかかわらずなぜ、今後吉田寮自治会を交渉相手としないという頑な態度をとり、さらに今も残る寮生が新棟に入居するにあたって「入寮募集を行わない」というような条件をつけるのでしょうか?私は、疑問に感じます。
川添副学長の立場からすれば、大学当局の制止にもかかわらず昨年度入寮選考をおこなった点で吉田寮自治会はすでに交渉相手としての資格を失ったということになるのかもしれません。ですが、これまで大学当局が吉田寮自治会と交わしてきた「約束」の一方的な破棄を宣言した上での「全寮生退去」「入寮選考禁止」という措置は、あまりにも強権的な対応と私は感じます。
「団体交渉」という集団的な威嚇の下になされた「約束」は無効であるという判断もあるようですが、その判断が適切である根拠の説明もまた一方的な形でしかなされていません。私自身も大学当局の一員(全学人権委員会委員)として吉田寮生を含む学生による「糾弾」の対象とされたことがありますので、「団体交渉」と呼ばれる場で教員の側が受ける圧迫感は想像ができます。でも、そうした事態の中でも学生たちの言い分にナルホドと思い、目を開かされる感じを覚えたこともあります。
「団体交渉」における時間制限などについては検討の余地があると思いますが、これまでの「団体交渉」はすべて不当であり、だからその中でなされた「約束」もすべて無効であると宣言するのは、あまりに不当な一般化と感じます。また、その説明だけでは、そもそもなぜ寮自治会による入寮選考を再考すべきなのかという理由もわかりません。どうやら入寮選考が吉田寮自治会と執行部との対立の焦点のようですので、以下、この点について記させていただきます。
これまで入寮選考は自治寮の重要な一側面となってきました。「京都大学学生寄宿舎規程」でも「入舎する者の選考は、寮生代表の意見をきいて、副学長が行う」と定めています。最終的に認可するのは副学長だとしても、実質的には「寮生代表の意見」を追認することが慣行と持されてきたことは、あなたもよくご存じのはずです。
なぜ今になってそれを変えなくてはらないのでしょうか?
1月17日の記者会見で、ようやくその理由が明らかにされたように感じました。吉田寮が「経済的に困窮した学生のセーフティネット」としての役割を果たしてきたことをどう思うかという質問に対して、あなたは、次のように答えられています。
「正規」学生(学部学生、大学院生)と「非正規」学生(研究生、科目等履修生、短期交流学生等)では京都大学との関わり方が異なる、「非正規」学生を京都大学の福利厚生施設に受け入れるつもりはない、なぜなら「支払ってもらえるコストによって受けるサービスは違って当然と理解している」からである…。
「支払ってもらえるコストによって受けるサービスは違って当然」。きっとあなたを含む大学執行部は、こうした原理に基づいた対応こそが「公平」と考えておられるのでしょう。まただからこそ、吉田寮自治会が、入寮選考において正規学生/非正規学生という立場上の違いよりも、「切実に入寮を必要としている」という経済的要因を重視してきたことを不適切と考えているのでしょう。
「支払ってもらえるコストによって受けるサービスは違って当然」。
一見するともっともらしい考え方ですが、私は疑問に感じざるをえません。吉田寮の問題は、もっとも基本的なところでは日々の居場所・寝所の確保にかかわる点において生存にかかわる問題です。そうである以上は、生存にかかわるニーズこそまず優先されるべきではないでしょうか?
私などよりよくご存じのように、国立大学への運営費交付金が年々減らされている状況の中で授業料は高騰、正規学生で50万円、非正規学生でも研究生の場合には30万円を越える金額の支払いを求められています。授業料免除や各種の奨学金もありますが、一般的には正規学生しか対象としていません。たとえ正規学生であってもやむをえず留年して学部5回生、修士3回生となった場合には、授業料免除や奨学金を受けるのはきわめて困難になります。
このように留年した学生、さらに非正規学生は、経済的困窮から逃れられる道が限られています。だからこそ、居場所・寝所については異なる優先順位が必要なのではないでしょうか。ですが、吉田寮に居住していた者への代替宿舎の提供にかかわるFAQでは、「正規学生の学籍を有している者のみが代替宿舎への入居が認められます」、正規学生であっても「修業年限の間しか入居できません」として、「修業年限内」の「正規学生」を優先する姿勢を明確に示しています。
「支払ってもらえるコストによって受けるサービスは違って当然」という言い方に対して、私は、生活保護バッシングにも通底する非寛容さを感じます。学生の中には自身の病気やご家族のご不幸など思いがけない要因により、通常の修業年限内に卒業・修了できない者もいます。大学・大学院に入学してはみたものの、どのように自分の専攻を選べばよいのか、さらに卒業・修了後の進路をどのように定めればよいのか。いったん方針を決めたつもりでも、迷い、選びなおそうとする学生も少なくはありません。大学生活とは、今も昔も迷い多き時代です。そうした「迷い」のための時間と空間を許容することこそ、大学のあるべき姿ではないでしょうか?
非正規学生の中には留学生の占める割合が高いという問題もあります。外国の大学を卒業してもすぐに大学院入学することは困難なために、まず非正規の学生として在籍しながら日本語能力を高めたり、研究技法の基礎を身につけたりすることが一般的です。そうした留学生が民間アパートを借りようとした場合に「外国人お断り」というあからさまな差別に直面する事態も、いまだに絶えることがありません。しかも、留学生の場合には居所の確保が在留資格に直結します。
今回の緊急アピールの賛同者の中には「シェルター」としての吉田寮の大切さについて記したものが少なからずあります。「自治寮にお世話になってとても助かった留学生として、吉田寮の自治を応援しています」というメッセージもありました。「自治寮であったからこその家賃」と書かれた方もいました。月2500円程度という「寮費(寄宿料・水光熱費・自治会費)」は自治寮という伝統の中で可能になってきたことです。そのことは、近年、各大学の寮において、自治寮としての性格の後退と同時に数万円に高騰していることからもわかります。
「寮費」の安さは、大学当局が寮居住者に対して相対的に多くの「コスト」を割いていることのあらわれなのかもしれません。あるいは、順調に就学している正規学生の中には、多大な「公費」が寮に居住する学生のために投じられていることを快く思わない者もいるのかもしれません。
かりにそうした学生が本当にいたとして「いつ誰が困った状況になるかわからないのだ」として、セーフティネットの大切さを説明することこそが執行部の役割ではないでしょうか? 社会全体として新自由主義的施策の下で「正規」労働と「非正規」労働のあいだの格差を拡大し、「自己責任」という言葉でこの格差を正当化する風潮が蔓延しているからこそ、「正規」学生と「不正規」学生という区別とは異なる原理で存立する空間を大切にすべきではないでしょうか?
賛同者から寄せられたメッセージの中には「京大が長年大事にしてきた余裕、寛容さ、自由奔放さ、カオスの文化の継承集団が解散させられかけている」というものもありました。「寛容」の原理は、川添副学長自身がご自身の研究の中で説かれてきたことでもあるのではないかと私は感じています。中世パリ大学でアリストテレス哲学に基づく特定の主張を講じた者を「異端」として排除する傾向が強い風潮の中で、トマス・アクィナスの果たした独特の役割について、あなたは次のように書かれています。
- 「アクィナスは神学者としてキリスト教的な世界像を保持していたことは当然であるが、自己の信じる世界像と齟齬しない仕方で解釈した上でアリストテレスの世界像の根底を受容し、そうすることでキリスト教世界把握そのものを豊かなものとしたといってよいのである。このアクィナスの「神学」として構想化された思想のなかに、単に歴史的一事例としてだけでなく、多元的な世界像を含みこんでしか生きられない現代社会に処するための理論的な範型のひとつをみることができると私には思われる。」(川添信介「専門と教養―中世パリ大学の理念から」南川高志編著『知と学びのヨーロッパ史―人文学・人文主義の歴史的展開―』ミネルヴァ書房、2007年、236頁)
西洋中世哲学史の門外漢の筋違いの論と笑われるかもしれませんが、吉田寮をめぐる執行部の対応は、「多元的な世界像を含みこんでしか生きられない現代社会」において無理矢理に新自由主義的な路線での一元化を図るもののと感じられてなりません。吉田寮と直接的な関係を持たない私が、こうした論を記すにいたったのも、多元性を許容しない非寛容な世界への恐怖が他人事ではないと感じているからです。
これも「釈迦に説法」ですが、「寛容tolerance」とは「自己の信条とは異なる他人の思想・信条や行動を許容し,また自己の思想や信条を外的な力を用いて強制しないこと」(平凡社「世界大百科事典」)であり、そこには自分を脅かすことになるかもしれないものの存在に「耐えるtolerate」という意味が含まれています。大学を管理する立場からすれば、よくわからない人が出入りしているようだ…ということひとつをとっても、不安に感じるところがあるのかもしれません。ですが、その不安を打ち消すために完全な管理を実現しようとしたとしても、それは土台不可能であり、望むべきでもないと思います。
どうか法的措置に訴えて今も吉田寮に残る学生たちの強制立ち退きを図るような事態を避けてください。それは、京都大学がこれまで長い歴史をかけて築いてきた文化的価値や社会的信用を根底から損なうものとなりかねません。
吉田寮自治会としても、5月末を目処として現棟からの退去と新寮への居住移転の意向を表明しているのですから、「学生の安全確保」のためにまずは無条件に新棟移転を認めてください。
市民に開かれたパブリック・スペースであり、京大の「縁側」でもある寮食堂の使用を従来通り認めてください。
現棟への寮生の立入禁止を解除し、従来通りメインテナンスをできるようにしてください。
その上で、場合によっては第三者的存在を交えて、入寮選考のあり方、現棟の補修の仕方と利用の仕方、今後の「団体交渉」のあり方などについてじっくりと話し合ってください。
そうした対応は、行政のトップから社会の底辺にいたるまで非寛容な精神がいよいよ蔓延しているこの社会において「多元的世界像」の重要さを告げ知らせるものともなるはずです。